読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日々読書メモ

大学で受けた授業をきっかけに太宰治を好きになりました。最近はもっぱら太宰です。自分が読んだ本の紹介(ネタバレ有)、感想、考察等書いてます。もちろん太宰以外でも書きますよ(^^)京都が好きなのでそれについても書いてます。

「葉」を読んでみた

f:id:yonnsann:20160903234133j:image

 

撰ばれてあることの

恍惚と不安と
二つわれにあり

 

ヴェルレーヌの詩から始まるこの「葉」という作品は、とても短い物語が葉となって集まり構成されています。

 

何故太宰はヴェルレーヌのこの詩を抜粋したのでしょうか。

色々説はあると思いますが、私は文学の神に選ばれた自分に対する詩と感じたからではないかと思います。

しかし、勘違いしないでいただきたいのは、自意識過剰の自己陶酔という意味ではないということです。

 

これは後に続く物語や「郷愁の太宰治」から考えるとそのような理由ではなく、選ばれてしまったが故の辛さや孤独を表す一種のSOSな感じがしました。

 

「郷愁の太宰治」の記事はこちら↓

「郷愁の太宰治」を読んでみた - 日々読書メモ

 

それではどんな物語が詰まっていたのか、気になったいくつかを紹介します。

 

まずは冒頭、

 

死のうと思っていた。

 

から始まる五行の話。

 

内容は、死のうと思っていたがよそから夏用の着物をもらったから夏まで生きようと思ったという話です。

「なんじゃそれ?」ってなるかもしれませんがこれが最後に生きてきます。

 

次は「兄」と「私」の話

 

「小説を、くだらないとは思わぬ。おれには、ただ少しまだるっこいだけである。たった一行の真実を言いたいばかりに百頁の雰囲気をこしらえている」

 

これは「兄」の言葉ですが、太宰にも兄がいます。しかも太宰は「兄」にとてもコンプレックスを持っていたみたいで、自分は兄と違って出来の悪いダメな人間だと思っていた、みたいな記述が「津軽」でも見られました。

 

津軽」の記事です↓

「津軽」を読んでみた - 日々読書メモ

 

実際このような言葉が兄から発せられたのかはわかりませんが何かとても意味深ですよね。少なくとも常に兄を気にしていたのはわかると思います。

 

そしてこの「兄」の言葉に対し「私」は次のように答えています。

 

「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」 

 

これは太宰の人間に対する姿勢のような気がします。

 

人間の醜いところ、汚いところを書くことができる太宰だからとても力強く感じる。

 

白状し給え。え? 誰の真似なの?

 

水到りて渠成る。

 

「兄」と「私」の話の後に唐突に現れるこの2行。

これは太宰治から太宰治への問いかけに見えました。

 

 彼は十九歳の冬、「哀蚊」という短篇を書いた。それは、よい作品であった。同時に、それは彼の生涯の渾沌を解くだいじな鍵となった。形式には、「雛」の影響が認められた。けれども心は、彼のものであった。

 

この「哀蚊」は太宰治という人間を見る上でとても鍵になる作品だと思います。

哀蚊」の内容は、主人公が姉の初夜を覗いている敬愛していた祖母を目撃する、というものです。

中々生々しくてあまり気分が良くなるものではなかったですが、ここでは太宰の「恥」というものがわかります。

身内の醜さを晒すことによって自分がこのような人間であるのはこういう者たちの中で育ってしまったからだ、というある種の言い訳ではないでしょうか。

 

また、「雛」という作品は確か芥川龍之介の作品だったと思います。確かそうだったハズ。うん。

太宰は芥川にとても影響受けてましたからね〜。何年か前にめっちゃ芥川って書かれた太宰の原稿かなんか見つかってませんでしたっけ?コワイコワイ(∩´﹏`∩)

 

話逸れましたけど、ここでも気になる台詞があるんですよね。

祖母の台詞。

 

「秋までいき残されている蚊を哀蚊と言うのじゃ。」

 

ここでは何度も自殺を試みたのに、愛人の命まで犠牲にし生き延びてしまった太宰の本音みたいなものではないでしょうか。

必要以上に生きることのつらさ。

また、最初のヴェルレーヌの詩に繋がりますが、才能を与えられたが故に死ぬことも許されない自身への哀れみ。そんなものが感じられます。

 

次は小早川と青井という二人の男の話です。

 

ここでは冒頭の「死のうと思っていた。」と対になる内容となっています。

 

自殺を企て失敗した青井。「死ねば一番いいのだ。」と言う彼に小早川は叫びます。

 

一ののプロレタリアアトへの貢献、それで沢山。その一が尊いのだ。その一だけの為に僕たちは頑張って生きていなければならないのだ。そうしてそれが立派にプラスの生活だ。死ぬなんて馬鹿だ。死ぬなんて馬鹿だ

 

この小早川の叫びはまるで自分に言い聞かせているようにも聞こえます。

太宰はこの作品を書きながら何か希望を見つけようとしていたのでしょうか。

 

また、とても納得させられたのは、外国人の少女が日本橋で花を売っている話の中の最後の言葉。

 

 安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生のよろこびを書きつづる。

 

これは個人的にとても印象深かったのは、確かに人間は恵まれたところにいるときほど、絶望に魅力を感じ、恵まれない暮らしをしているときほど今生きていることの奇跡に喜びを感じます。

この言葉はとても深いなぁと思いました。

 

どうせ死ぬのだ。ねむるようなよいロマンスを一篇だけ書いてみたい。

 

この言葉から始まる最後の話は太宰の願いでしょうか。

次で明らかになります。

 

よい仕事をしたあとで
一杯のお茶をすする
お茶のあぶくに
きれいな私の顔が
いくつもいくつも
うつっているのさ

 

どうにか、なる。

 

つまり、今迄の話は太宰治という人間の中にいる、様々な顔を持つ太宰。

死ぬ前にロマンスを書きたい太宰、生きたい太宰、醜い身内に対する嫌悪感を持つ太宰、兄にコンプレックスを持つ太宰、死のうと思っていた太宰。

そんな自分自身を一枚一枚分けられた「葉」と見なし、茶のあぶくとなり、飲み込まれまた太宰の一部となるのです。

そして、そんな自分を受け入れ、最後の言葉が「どうにか、なる」です。

どんなに辛いことがあっても生きていればどうにかなる。大丈夫。という励ましの声が聞こえる気がします。そしてそれは同時に自分にも言い聞かせているのでしょう。

ですからこの「葉」という作品は、自分が生きていくための励みとして書かれたのではないのでしょうか?

 

私はそのように感じました。

そしてなんだかとても、勇気をもらえた気がします。